第9回「いじめ・自殺防止作文・ポスター・標語・ゆるキャラ・楽曲」コンテスト
 作文部門・優秀賞受賞作品
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  『いじめをなくす東洋思想』
        


                                                 中村 雅也

 私は、肉親を知らない。その事実を知ったのは、中学の入学式を目前に控えた日のことだった。戸籍抄本に、「祖父が父」、「祖母が母」、「母が姉」とあったのだ。愕然とした。余りに、衝撃が大き過ぎた。まさしく、思春期だったから、一瞬にして、失意のどん底に突き落とされた。そこへもって来て、どこで知られたか、中学へ上がるや、「いじめ」にあった。だから、日々悶々として、何も手につかなかった。授業中でも、上の空だった。無気力という魔物に、心が支配されていたのである。従って、学校生活は苦痛でしかなかったのである。ところが、私に手を差し伸べてくれたものがある。幸運にも。
 私のそんな状態を知ってか知らずか、担任から図書委員の任を、仰せ付かった。これがそれである。これが不思議を起こすのだ。それも、初日から、その仕事は、下校の時を知らせる音楽を流すことと、本の整理であった。
 私は、指を震わせていた。放送室の中で。こわかったのである。初めてのことなので。回り始めたレコード盤に、針を落とすことが、なんとも恐ろしかったのだ。レコード盤を破ってしまうのではないか、と。それでも、なんとかやって退けたのである。どっと私は倒れ込んだ。側の椅子に、油汗をかいているすっかり神経を擦り減らしていたのだ。だから、曲は無事に流れていたけれども、そんなもの、耳に入る筈もなかった。尤も私にはもともと、音楽なんぞ聞く気は、さらさらなかったのだが。
 と、一体どうしたこと?今度は、心が震え出したではないか。緩やかで、ゆったりとした波が打ち寄せて来たのだ。我が胸中に、なんともやさしく、温かな調べが、凍り付いた私の心を解かしていくのが分かった。なんと、心が躍動し始めたではないか。私は、弾んだ心で、隣の図書室へと向かった。
 本を整理していると、ある背表に目を奪われた。思わず私は、その前に立った。吸い寄せられるように。気付いた時には、それに手を伸ばしていた。「シャーロック・ホームズ」だった。
 今にして思うと、音楽がシャーロックを私に紹介してくれた、そう思えてならない。それはさて置き、この日私は初めて、二つの世界と出会ったことになる。音楽と文学の。そしてこの日から私は、この世界に没入して行くことになる。それに逃避したわけではない音楽は生きる力となり、文学は考える力となったのである。で、私は若くして、我が存在意味は?と考えることができたのである。だから、自殺なんぞは、考えもしなかった。
 だが、今にして思えば、その頃の「いじめ」は、カラッとしたものだった。だから、学校に行くことができたのだ。ところが、今のような「いじめ」であったらどうだ?学校どころではなかったに違いない。
 そう、今の「いじめ」は、余りにも酷い。自殺者までも、出してしまうのだから。これはこのまま、放置してはならない。決して。大変なことになるからだ。日本の将来が。
 このままでは、今よりもずっと冷血な社会がやって来ることを、私は危ぶんだのである。従って、子どもの「いじめ」の問題は、国を挙げて取り組むべき、最重要な問題と私は考える。しかしこれがまた、至難なる問題なのである。なぜかなら、子どもたちの、心の闇に分け入って行かなければならないからである。それにしても、子どもたちの心に「いじめ」の種を植え付けたのは、一体、何者なのか?
 ドストエフスキーは言った。「人間の心は、悪と善との戦場である」と。これは、子どもに向けた言葉ではない。本来、子どもの心は真っ白なキャンパスで、「悪」もなければ「善」もないからである。従って、子どもたちが自分の意志で、「いじめ」という「悪」を働こうだなんて、考える筈がない。つまり、ということは、子どもたちの心の中を「いじめ」という、真っ黒な「悪」の色で、塗り潰した者がある。それは何か?それは、今の日本社会こそが、その元凶である、と私は考える。なぜか?日本は、余りにも経済成長に、力を傾け過ぎた。勿論、経済発展は望ましい。貧困は、「悪」の温床になりかねないからだ。だが、それを最優先させたところに問題がある。経済至上主義を産み落したからだ。それは、弱者を犠牲にする冷血な思想だ。従ってそれは、それこそ冷たい風を、世に送り出したのである。それ故に、子どもたちも、その風が吹き荒ぶ中で、生きることを強いられている。だから、子どもたちの心の中にも、次から次へと嵐が吹き捲るのである。当人は、感じていないのだけれども。なぜか?その嵐は、子どもたちの「深層心理」の奥に沈んでいるからだ。それで、その心理の表層に浮かび上がって来ないのである。
 つまり、子どもの心の海の底はいつも大時化で、激しく波立っているのだ。従って、「深層心理」の世界にあっては、子どもの心は乱れに乱れ、その故に苛立ち、ストレスが積りに積っているのである。堆く。それがいつか、爆発することになる。「いじめ」である。「深層心理」の世界に閉じ込められていた、大きな不満が噴き出たのである。うっ積されていたものが一気に。これがまた、とてつもなく強烈なエネルギーを放出するのだ。従って、標的にされた者にとっては、大変な脅威である。言い知れぬ恐怖感に苛まれるのだから。それも、寝ても覚めても。絶え間なく、これでは、神経が休まる時なんぞは、全くあるまい。従って、神経がもつわけがない。これはまさに、仏教が説く、「生老病死」という、人類一人一人が平等に抱える根源的な「苦」の中の一つ、「生の苦」である。つまり、生きていること自体が、耐え難い苦痛なのである。それはそうだ、子どもが一旦、「いじめ」の心を起こすと、とことん攻撃をし続けるのだから。手加減というものを知らないからである。だからやられたほうは、たまったものではない。逃げることばかりを考えた頭には、それしかないのだ。そう、それしか頭が機能しないのである。心理学的にいえば、心が点になっているのだから。だが、逃れられない。生きている限り。だから「いじめられっ子」は、この世から逃がれるしかない。考えるに至る。そこまで追い詰められたのだ。これは、国家にとっては一大事だ。と同時に、「いじめっ子」が、子どもの怯える姿を見て、快感を覚えるようになったら、これまた、事である。病的で歪な人間になってしまうからだ。
 ということは、これからの社会は、「いじめっ子」を出してはならぬ、ということになる。そのためには、温かで、血の通った社会の構築が必要である。ならば、冷血な経済至上主義を駆逐しなければなるまい。ところがこれがまた、難事中の難事なのだ。なぜかなら、それは人間の「幸福観」と深く結び付いているからだ。だから、根が深い。
 しかしなぜ、世界の各国の政府は、経済政策を最重視するのだろう?それは、価値観、幸福観に問題あり、と私は言いたい。これは錯覚なのだ、と。「五感の満足」、それが幸福だと錯覚しているのだ、と。「五感の満足」とは、「衣・食・住」に事足りた、豊かで快適な生活である。これは、経済力によって、手に入れることができる。だから、経済成長を最優先したのだ、と。ところが、それが社会の混迷を招いたのである。
 そのことに関して、かつて、我が友の台湾の学者が、こんな話をしてくれたことがある。
 世界大戦後、東洋諸国の政府も、挙って、経済力を高める政策を執り出した。そのためか、西洋思想に頼り過ぎた、と。資本主義であれ、共産主義であれ、その選択が、どうであったか?と。そしてその方は、こう話を進めたのである。確かに、西洋思想には経済成長を促進する力はある。だが、と。忘れてはならぬことがある、と。西洋思想は華やかだが、それには陰がある、と。要するにその底流には、分断の力が秘められている、とその方は言うのだ。人間と自然、そして、人間を切り離す力を持つ、と。従って、競争社会を創り、なんとも冷たい風を巻き起こすことになる、と。それを私は思い起こした。幸いなことに、「分断」、その言葉が、私の気を晴らしてくれたのである。胸のつかえが取れたのだ。私には、一つの疑問がある。それは、なぜ子どもたちは、同じ仲間を攻撃できるのか?というものだ。その答えを得たのだから、胸がスカッとしたのである。
 その答えは、分断の力が子どもたちの世界にあっても、強く働いている、というのだ。従って私は、この分断の力を排除することこそが、「いじめ」をなくす、一番の政策だ、と私は考える。では、どうすれば?それは、我が友、台湾の学者、林氏の次の言葉が興味深い。人間と自然、そして、人間と人間とを切り離す西洋思想に対して、東洋思想には結合の力がある、と言うのだ。つまりそれは、調和と共生の哲学だ、と。そして更に氏は、思いもよらぬ論理を展開したのである。聞かされた時にはぴんとこなかったけれども、今にして思えば、深遠なる哲理だった。こう話してくれたのだ。西洋思想が人間の外なる世界、すなわち環境に光を当てているのに対して、東洋思想は人間の内なる世界、すなわち、人間そのもの、人間の心に光を当てている、と。これを思い起こした時、私は大きく視野を広げることができた。見えて来たのだ。興味深い所まで。結局のところ、「いじめ」の問題は、人間の心の奥まで分け入って行かなければ、目処が立たないことを知ったのだ。これは、心の問題なのだ、と。ところが未だかつて、そんな視点で物事を観たことはなかった。そもそも、東洋思想なんぞというものには、目をくれたことは、一度たりともなかったのだから。だから知らなかった。まさかその思想が、心理学の世界であるだなんて。
 そもそも、東洋思想なんぞというものは、非科学的で低俗な迷信のようなもの、と思い込んでいた。しかし、今にして思えば、恥じ入るばかりである。己の浅薄さを。だが幸いにして、東洋思想が心の不思議を説く哲学であることを知った時、「いじめ」の本質が見えて来た。こんな考えが、頭に浮かんで来たのであった。「いじめ」の本質は、心の問題ではないか?との。子どもの世界に、分断を持ち込んだのは、人間と人間の心の触れ合いが希薄になった、その結果ではないか?そう考えたのである。教育の場にあっても、競争社会の影響を受け、打ち解けた心の交流が、仲々できないでいる。だから、本来、友であるべきなのに、物に見えてしまうのではあるまいか?と。それで、生命の尊さ、重さに鈍感になってしまっているのではないか、と。
 そこで私は学ぶことにした。東洋思想を、心の世界を、覗くためである。すると、思いもよらぬことが起ったではないか。心が震え出したのだ。言い知れぬ喜びで、心の不思議が明かされていたのだ。そして、知ったのである。その不思議が、「いじめ」問題の鍵を握っていることを。そしてとうとう、辿り着いたのである。「いじめ」問題の終着点に。
 では、心の不思議とは何か?それは、心の多様性である。確かに人間の心には、攻撃的側面もある。これが、「いじめ」の元凶である。いわゆる、ドストエフスキーが言う、「悪」の働きである。だが心には、それとは対照的な働きがある。人を思いやる心、すなわち、平和の心だ。要するに、「善」なる心、「平和のとりで」は、元々、人間の心に備わっている、というのだ。ということは、「平和のとりで」は築くのではなく、引き出せばよいということになる。その力が、東洋思想にある、という。
 そこで、私は意を決したのである。東洋思想の力を、世に問おう、と。それがなんと、国立図書館を始め、全国主要図書館に置かれたのだ。これで、私の主張は認められたことになる。「いじめ」に歯止めを掛けるためには、東洋思想を学ぶべき、との主張が。
 そこで私は、訴え続けたい。我が国は、西洋思想もいいけれども、東洋思想にも目を向けるべきではないか、と。